でたらめだったら面白い

日々思いつく僕の話について適当に垂れ流しています。

僕にとってドラクエのちょっとした設定が素敵に思える話。

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僕とドラクエとの出会い

 僕が初めてプレイしたドラクエSFC版(スーパーファミコン版)の5だった。昔、僕は小学生時代に初めてゲーム機を親に買い与えられたのだが、当初、僕はドンキーコングボンバーマンがんばれゴエモンなどのアクションゲームを好んでプレイしていた。当時好き嫌いのとても激しかった僕は、RPGのことをなぜか強く嫌っていた。多分本当にRPGが嫌いだったわけではなく、自分がやったことのある種類のゲームこそが至高で、その他の種類のゲームはダメだという、わけのわからない自尊心のような何かに取り憑かれた哀れな子供だったからだと思う。

 ドラクエ5は近所の友人に貸してもらった。「めっちゃ面白いから!」と言われて貸してもらったはずだ。確かそうだったと思う。家に帰ってその日のうちにドラクエ5をプレイしてみた。本当にめちゃくちゃ面白かった。その日以来、僕はRPGの魅力に取り憑かれてしまった。反対に、それまで大好きだったドンキーコングなどはもうほとんどやらなくなってしまった。北陸の田舎に住む僕にとって、RPGこそがつまらない10代の日々を少しだけ潤す物になってしまった。ドラクエ6が発売されるのをもう待ちきれないというほどに待ち焦がれ、親が見れば子供が狂ってしまったと思われるだろう程にFFシリーズをやり込みまくった。本当に狂ったと思われていたかもしれないが、今はまだ怖くてそのことを両親に聞くことができない。

大人にとってのゲーム

 年を取ればゲームはやらなくなるものだ。特にRPGなどといった時間をかけて世界を救う奴こそこの傾向は顕著だと思う。昔あれほどに僕をとりこにした彼らは、今はもう部屋の隅でホコリをかぶる思い出の品々になった。それは僕の成長だと思うし、この昔と今を持つ僕の存在こそが、彼らを開発したゲーム会社の社員さんたちの誇りなのだと強く思う。僕はたくさんの人々や思い出に囲まれて大人になった。

 多くの意味で現代は昔と違ってしまった。その中で最も説明可能な例をあげると、今はインターネットが普及し、ちょっとした検索によって、ゲームの「プレイ動画」が簡単に見つかるようになった事は最重要な事柄だろう。プレイ動画の中の勇者たちは凄い。当時小学生だった僕にはとても気づきようもなかった攻略法によって、これはいくらなんでも無茶だろうと思わせるほどの低レベルながらも、いともたやすくボスモンスター達を蹴散らしていく。凄い、と僕は純粋に思った。プレイ動画は、成長とともに枯れていった僕の心に水をやるのに十分なくらいの魅力を持っていた。ドラクエ3の「性格」は「タフガイ」とか「てつじん」が最も効率よく、しかも、「バラモス」は「マホトーン」と「ラリホー」によって容易に撃破できる、といった、僕にとってまったく新しい多くの事実達は、大人になった僕の中の少年をもう一度目覚めさせたと思う。

ネット上で今も消費されるドラクエ

 最近、久しぶりにSFC版のドラクエ3をプレイした。名作中の名作だ。「勇者」である主人公(僕たちが操作するプレイヤー)は、「戦士」「魔法使い」「僧侶」などを伴って、「魔王」を倒して世界を救う旅に出るのだ。僕たち勇者は先代の勇者の息子(または娘)であるので、その僕たちが世界を救うことが、どうやらドラクエ世界においては正統らしい。こういう血統主義的で荒唐無稽なお約束が、いかにも現実ではない、人の作ったゲームらしく、SFCの今となっては非常に子供だましなゲーム画面にとてもマッチして、没入できる世界観を生み出す要素のひとつになっていると思う。

 勇者はゲーム世界の隅っこにある、田舎の城を出発して世界を救う旅に出る。その時、国王からいくらかのアイテムとお金を貰うのだが、これが全く世界を救うべく自分を殺して旅に出る青年たちをねぎらうような価値もない物々なのだ。「こんぼう」と「ひのきのぼう」と「ぬののふく」で、一体どうやって魔王を倒せばよいのだろうか。城下街の武器防具屋には「どうのつるぎ」が売っているのだから、せめてその国一流の誠意を見せてもらいたいものだと思う。

 僕にとってドラクエのちょっとした設定が素敵に思える。上記したような、いわゆるお約束のつっこみ達は、既に一通り、インターネット社会で生産・消費を終えたアイディアだろう。もちろん僕はこれだけを書きたいがために長々とこの記事を書いているわけではなく、インターネットに散見されるアイディアに頼ったわけではない、他でもない僕自身が素敵だと思った設定は他にある。我ながらそれほど大したことではないと思うのだが、せっかく自分で思いついたことであるので、余暇のひとときにこの記事を書こうと思ったのだ。

消費されるドラクエ -遊び人と賢者-

 その前にもうひとつだけ、多くの生産消費を通過したお約束のアイディアを書いておきたい。

 ドラクエ3には、「職業」があり、そして「転職」ができる。レベル20を超えたキャラクターは、(主人公である勇者を除いて)違う職業に転職できる。このシステムがドラクエ3を不朽の名作にした。職業には先に挙げた、戦士、僧侶、魔法使いの他にも、「遊び人」と「賢者」などがある。この遊び人はとんでもないやつで、モンスターとの戦闘中に、勇者の指示を無視して勝手に遊びだすのだ。そういう特徴を持つ遊び人は、当然戦力としては全く期待できず、一見なんの役にも立たない、ただの穀潰しなのだが、しかし遊び人には唯一大きなメリットが付与されている。遊び人がレベル20に到達した時、彼は賢者に転職できるのだ。本来賢者は特殊アイテムがなければ転職できない。賢者への転職を可能にするのは「悟りの書」というアイテムで、これがあれば、超便利職である賢者への転職が可能になる。しかし唯一遊び人のみが、この悟りの書なしでの賢者への転職が可能だ。

 フラフラ都会で遊んでばかりだった末っ子が突然故郷に帰ってきて、「今まで心配かけてごめん。俺、やっと父さんの気持ちがわかったんだ」とか何とか言って、やたら良い奴になった結果、色々あって家業を継いだり、色々あって単独で遺産をもらったりする。大抵こういうストーリー仕立てのドラマや小説では、一見まじめでずっと家元にいた長男は、その実、家族に対しての感情に希薄で、もしかしたら遺産目当てだったりするものだ。なんとなく殺人事件とかが起こったりして、なんとなく凄い探偵がなぜかそこにいるような物語にありそうな設定だ。少し違うが、なんとなく犬神家の一族を思い出した。

現実に生きる遊び人たち

 とにかく、この、「昔は遊んでたけど今は誰よりも優しく賢い」という設定は、洋の東西を問わず、時代を問わず、数多くの物語に採用されてきたと思う。少なくとも僕はこの設定に死ぬほど見覚えがある。たぶんこれに似たようなことが、現実にも散見される事象だからなのだと思う。

 もちろん最初から優しくて賢い奴が一番偉いと思うが、それは誰の記憶にも残らず消え去っていくだろう。カタルシスがないからだ。近所の優秀で家族思いの兄ちゃんが、地域トップの大学に行って弁護士になっても、確かに無茶苦茶凄いが、記憶には残りにくいだろう。反対に、近所の反抗期が凄くてちょっと怖いけど実は仲間思い、そんな息子さんが都会の通称Fランク大学に行ったのに、更生して田舎に帰ってきて弁護士になったら、それはきっと美談として語られていくと思う。

 「今は誰よりも優しく賢く」なった彼らには、たぶん共通点がある。つまり、彼らが思春期に抱いていた悩みの種類が、彼らのパターンを統一するだろう。もしかしたら昔気質な頑固親父がその悩みの原因かもしれないし、はたまた教育熱心な母親への反発が彼らの苦悩の日々を生み出したかもしれない。この悩みというやつ、つまりストレスというやつは非常に厄介なくせものだ。人間の脳は、特に少年時代において、とてももろくできている。悩みが彼らの脳の一定以上の範囲を占めた時、彼らは容易に自分自身のコントロールを失ってしまうだろう。

そもそもなぜ彼らが遊び人になったのか

 例えば学校の成績が優秀であるためには、多くの人が考えているよりも、もっともっと多様な能力と環境を必要とする。しかし、一般的に知られていて、この時代になっても支配的な考え方となっているものがある。いわゆる生来的な地頭の良さというやつ、そして子どもたちの自発的なやる気、この2つが学校の成績を左右するとする、最も唾棄すべき考え方だ。この考え方は、2014年現在においても世界中の保護者たちを支配し続け、世界中の子供達を、「宿題しなさい」、「勉強しなさい」、これらの言葉によって保護者の圧政の中に押しとどめ続けている。

 話が逸れた。とにかくドラクエ3のように遊び人から賢者になった人々は、知的レベル自体は十分社会的に成功できる水準でありながら、しかし何か弱点をもつ性質を持って生まれてきたのだろうと思う。その弱点があったために、少年少女の時代に、外部環境によるストレスや葛藤に飲み込まれてしまった。経験という、ストレスと立ち向かうための最大の武器であり防具となる物を未だ持たなかったがためだ。

 そうやって10代を無為に過ごした彼らは家元を離れ、フラフラと街に出て行くことになる。そこで多くの経験をした彼らは、今まで翻弄され続けてきた自分自身と立ち向かうための力を手に入れるのだ。

僕にとってドラクエのちょっとした設定が素敵に思える話。

 最後になるが、ようやく表題の設定について書こうと思う。僕が素敵だと思ったドラクエの設定だ。

 ドラクエ3には「おぼえる」と「おもいだす」というシステムがある。ドラクエ世界において、街の住人たちがパラパラと教えてくれるヒントが世界を救う道順となる。「そういえば、東の村で事件が起きたらしい」と村人が言えば、僕たちは東の村に走りださなければならない。「おぼえる」システムは、そういうヒントのいわばメモ帳だ。村人の言ったことを「おぼえ」、必要なときに「おもいだす」ことによって、次に僕たちがどこへ行けばいいかいつでもわかるためのシステムだ。

 勇者のレベルが上がってくると、「おもいだす」だけでなく、「もっとおもいだす」「ふかくおもいだす」など、覚えたことをたくさん思い出せるようになるのだが、レベルが上がってたくさんの経験を積んだ勇者は、「わすれる」ことができるようになる。

 この、「わすれる」ことが素敵だと思った。何だそんなことかよと言われるだろうが、それでも今大人になった僕には素敵なことだったのだ。少年時代ドラクエが大好きだった僕に何の示唆も与えなかった、この「わすれる」ことが、今の僕にはとても魅力的にうつった。これはゲーム自体の素敵な一面でもあると思う。ひとつのゲームを、昔の僕と今の僕、二人の僕がプレイし、昔どうしてもできなかったひとつひとつを、今の僕が攻略していき、昔の僕が路傍の石だとしか思えなかったひとつひとつを、今の僕がつぶさに拾い上げていく。この相対性を、大人としての生活に疲れる今の僕が、日々の潤いに変えていく。

「わすれる」ことの重大な価値

 今の僕を賢者だとは思わない。いくら適当な事を書き連ねるインターネット上のブログであろうと、自分の事をいきなり賢者とか言い出すのは、いい大人としてとても恥ずかしいことだと思う。しかし、昔の僕が遊び人であったのは間違いない。だから今の僕は大体普通の人になったと思う。面倒だからこの点においては概ねそういうことにしておきたい。

 話を続けよう。古今東西、生まれつきに何らかの弱点を抱えたために、自身のコントロールを失い、遊び人にならざるを得なかった何人もの先人たちが、「昔の事はもういいよ。もうそんな事は忘れた」と、きっと彼ららしく誰もその言葉を口には出さず、ただ胸に押しとどめ、街で成長して家に帰っていったのだと思う。みんな遊び人から普通の人になり、そのカタルシスゆえに周囲の人々の記憶に留まり、誰かが物語にして流布したことで、上記したような定型ストーリーが出来上がったのだと思う。

 昔の嫌な思い出、昔好きだった人のこと、昔世話になったけれどもう墓でしか会えなくなってしまった人たちのこと、全部事実としては今も覚えていて、それらはみんな当時の僕たちを地獄に落とすような物だったかもしれないけれど、その時僕たちが抱いていた感情を、今の僕たちは大体忘れてしまった。当時僕たちが悩み苦しんでいた事実とその内容を確かに覚えているが、その瞬間に僕たちが抱いていたリアルな苦しみの手触りや息遣いを、大人になるにつれて僕たちは段々と忘れていったのだ。

 もし、今も僕たちがその感情までも明快に覚えているとしたら、その悩みはきっと、今この瞬間も僕たちを苦しませ続けている何かのはずだ。その大きな障害を、その感情を、忘れることで克服するまで、もしくは克服することで忘れるまで、きっと僕たちは、大人になった今も、真の意味で救われてはいないのだと思う。

 人間は、最初から忘れることはできない。人間はそういうふうには作られていない。しかし、日々の繰り返しを生きることで、新しい経験をして、さらにそれも忘れていく。その中で、忘れることと忘れないことの釣り合いがきっとちょうどとれた時、今度僕たちは普通の人からもしかしたら賢者あたりに転職できるのやもしれないと思う。

 市立図書館にも国会図書館にだって、悟りの書が置いていないのが現実の辛いところだ。